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−連載コラム− |
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| 台湾独立の胎動 | No.F | ||
| −「新台湾と日本」取材班 | |||
| 再建された「六士先生之墓」 | |
伊沢は、事件の半年後の七月一日、六人の遺灰を芝山巖に合葬し、丁度台湾へ来ていた伊藤博文総理に題字を依頼、「学務官僚遭難之碑」を建て、六士先生の遺徳を偲ぶ慰霊祭を盛大に催した。また、昭和五年には、この地に六士先生を祀る芝山巖神社も建立され、その後台湾教育に殉じた日本人と台湾人の教育者が祀られた。その数は、昭和二十年八月の終戦の時点で、実に三百三十七名を数えている。神社の境内には、それらご祭神の名を刻んだ三基の碑が立てられていたという。 しかし、日本の敗戦後、国民党が台湾へ乗り込んで来ると、芝山巖の様子は大きく様変わりする。かつての敵国日本の教育者が、このような形で祀られるのを中国国民党が快く思うはずがなかった。彼らは六士先生の墓や芝山巖神社を無残に破壊し、「学務官僚遭難之碑」をなぎ倒した。そして、その跡地に蒋介石の特務機関のボスであった戴笠(号は雨農)を記念する雨農図書館を建てた。また、すぐそばには、国民党の立場から芝山巖事件を説明する碑を建てたのであった。この碑文には、六士先生を殺害したのは、日本統治に反抗する「義民」と記されている。 碑を見ながら、陳絢暉氏は嘆く。 「日本語教員を殺害し、その首級まで討ち取ることは、近代国家では野蛮であり、犯罪です。賞金をもらえると思ってやったんでしょう。国民党時代には、六士先生を襲ったのは『義民』ということになっていましたが、本当はただの『土匪』ですね」 実は、六士先生の墓は、国民党支配下の戒厳令下で密かに再建されていた。 「六士先生のお墓の跡から、骨壷が地表に露出しているのを、学堂のあった恵済宮の真明住職が見つけたんです。これはいけない、と密かにお骨を移し、無銘の小さな石塔を立てました。もう五十年位前のことです。その後、士林公学校の卒業生有志で、更にこのお墓を立て直しました」 陳氏が、お墓を指す。墓は、御影石でつくられた立派なもので、墓石の正面には「六氏先生之墓」と刻まれている。日付は、芝山巖学堂が開かれてから、満百年の平成七年一月一日付けである。この年、芝山巖学堂の流れを汲む士林国民小学校では、開校百周年(日本時代、国民党時代通算)の式典が行われた。また、ほぼ同時期に、芝山巖神社のご祭神として祀られていた教師の名前の入った碑二基が再建されている。 我々がこの碑文の写真を撮っていると、近くにいた六十歳代くらいの台湾人男性数人が日本語で声をかけてきた。 「子供の頃は、よくこの辺で遊んだが、碑は二つでなくもっとあった。国民党が壊して崖から落とした。あんまり壊れてない二つを何年か前に、拾い上げてたて直しました」 人々はどうやら近くに住んでいる人らしい。日本統治が終了した昭和二十年の時点では、まだ子供だったからか、日本語はたどたどしいが、六士先生を熱っぽく弁護する。 「本当のものを壊してウソのものを建てました」 そう言って、一人が国民党のつくった碑を指すと、皆が深くうなずいた。 しばらく話をして碑の前を離れると、そのグループとは別の人が次から次に我々に話しかけてきた。少し離れたところから、話を聞いていたのであろうか。 「悪い人が六士先生を殺しました。お金を出して生徒を集めたので、お金持ちだと思って、悪い人が六士先生を襲った。私は台北の人じゃないが、知ってます」 「あの時、六士先生を土匪が殺した。六士先生は教育のためにここに来た。本当に記念になるのはこれだ」 今度は、一人が五十余年前になぎ倒されて横たえられている「学務官僚遭難之碑」の方を指した。 五〇年間の国民党の反日宣伝があっても、人々は決して六士先生のことを忘れてはいない。六士先生を慕い、日本教育を評価する気持ちは、今も尚台湾の人々の中に生き続けているのである。 |
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※許國雄著 『台湾と日本がアジアを救う−光は東方より』のご紹介はこちら |
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