−連載コラム−
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台湾独立の胎動 No.E
−「新台湾と日本」取材班

日本教育の原点「芝山巌」
 
 では、台湾における日本教育の原点とは、一体どこにあるのであろうか。
 日華交流教育会の会合で、台湾人の教師が「台湾教育の原点は六士先生にある」と話すのを幾度か聞いたことがある。「六士先生」とは、台湾の教育のために最初に日本から派遣され、芝山巖(しざんがん)学堂という学校を開いた日本人教師たちのことである。
 許國雄氏と共に日華の教育交流をすすめてきた草開省三氏は次のように述べる。
「中華民国文部省の道徳教科書の編纂者である鄭来進先生が、第一回の研究会の後で声をひそめておっしゃいました。『本省人の先生は、毎年日本との教育交流をやらねばいかん、と思っている。芝山巖精神を原点として教育を進めないと台湾は駄目になる』と」

 「六士先生」「芝山巖精神」とは何か、それを考えるには、まず日本が台湾を統治した最初の年まで溯らなければならない。
 明治27、28年の日清戦争後、下関講和条約で台湾及び膨湖列島が日本へ割譲され、台湾では日本の統治が始められた。当初、日本政府は、日本人となることを望まない者は、二年以内に清国へ帰国すべしとの布告を出した。この布告に従って、清国へ帰った人もあり、また日本へ帰順した人も多くいたが、既得権益が脅かされることを恐れた人々は、清国の台湾順撫であった唐景松を大統領に担ぎ出して「台湾民主独立宣言」を布告、抗戦の構えを見せた。このため、日本政府は、直ちに北白川宮能久親王の率いる近衛師団を台湾へ派遣し、鎮圧の軍事行動を起こしたのであった。
 日本軍は、上陸すると台湾北部でたちまちにして清国軍を打ち敗ったが、敗残兵となった清国兵は、台北城内へなだれ込んで、放火、略奪、強姦等狼藉の限りを尽くし、城内は無政府状態になっていた、という。困惑した台湾住民は、日本軍に治安の確保を依頼。明治28年6月7日、日本軍は台北を鎮圧し、漸く治安は回復されたのであった。

 台北の治安が確保されると、日本政府は直ちに台湾人への教育の準備へと取りかかった。樺山資紀台湾総督は、当時、学務部長心得であった伊沢修二の意見具申を受けて、台湾にも学務部を創設、その長に伊沢を任じ、楫取道明以下全国から志ある六人の人材を集めたのである。伊沢たちは7月16日に、台北の中心から少し離れた芝山巖という岩山にある恵済宮というお宮を借りて学堂を開いた。借り賃を月五円支払ったという。


台湾の教育に殉じた「六士先生」

 我々は、「六士先生」の研究者・陳絢暉氏に芝山巖学堂のあった場所への案内を依頼した。朱色で派手な飾りのついた山門をくぐり、学堂のあった頂上への階段を昇りながら、陳氏は語る。
「最初は、お金を出して生徒を集めて、日本語を教えたんです、そうしないと生徒が集まらないから。そして六人の生徒が集まりました。六人の生徒を七人の先生(伊沢と六士先生)が教えたんです」
 当初、生徒は僅か六名であったが、九月には、これが二十一名に増え、伊沢たちの事業は周囲の住民からも次第に受け入れられつつあったという。だが、日本人教師たちには、思わぬ不幸が待ち受けていた。

 その頃、能久親王の薨去があり、伊沢は、宮の霊柩と共に日本内地へ帰京していたが、日本軍が、台湾全土で清国軍を鎮圧した後も、各地で日本統治に不満を持つ者たちのゲリラ活動が続いていた。そして、明治28年も暮れようとする頃になると、台北周辺も再び不穏な空気に包まれたのであった。付近に住む台湾人は、学務部員たちに避難を勧めたが、彼らは教育の理想を信じ、決して芝山巖を去ろうとはしなかった。
 明治29年1月1日、運命の日が訪れる。六名の学務部員と用務員一名が、台北で行われる元旦の拝賀式へ出席のため下山しようとした時、そこで約百名のゲリラと遭遇したのである。

「ここですよ。六士先生と土匪(どひ)が遭遇したのは」
 陳氏の指さす辺りには、清朝時代に石を積んで作られた小さな門があった。辺りは、木々が生い茂り少し薄暗い感じになっている。
 ゲリラに対し、教師たちは臆せず諄々と説諭した、という。一時はゲリラ側も、それを聞き入れるように見えた。しかし、一部のゲリラが槍を持って襲いかかってきたため、ついに両者入り乱れての白兵戦となった。
 
「剣の心得のある先生がここで何人かを斬りました」
 しかし、多くの学務部員は丸腰でたいした応戦もできなかった。台湾教育施政の魁たらんとの志に燃える六人の教師は、軍隊のような武器は何も所持していなかったのである。また、何分に多勢に無勢で、六人はあちこちでちりじりになって戦わざるをえなかった。そして、衆寡敵せず六人の学務部員と一人の用務員は終に一人残らず惨殺され、首を撥ねられてしまったのである。
 当時、伊沢は、全島に日本語学校を開くため、日本で教師の募集を行っていたが、芝山巖の悲報を聞いて慟哭した。しかし、伊沢は学堂を危険な芝山巖から台北へ移すことを決して考えなかった。応募してきた第一回の講習員に「今後ともこのような事件が起こらない保証はできない。考えて取り消してもよい」と言い放ち、同年四月に未だ治安の安定しない芝山巖へ四十五名の講習員(教師)と共に乗り込んでいる。伊沢は、「六士の血で彩られた芝山巖で学ぶことにこそ意義がある」と考えていたという。

 かくて、六士先生の殉職と、これを決して忘れてはならないとする伊沢の志が一つになって、その後の台湾教育施政の前進は着実に勝ち取られていった。日本の領台直後の明治30年、台湾の学齢児童の就学率は、総人口の0.5〜0.6%であったが、昭和17、18年頃には、これが70%を突破する。また、終戦のときの識字率は、実に92.5%にのぼり、台湾は世界で最も民度の高い地域の一つに数えるまでに発展したのであった。
 ちなみに、芝山巖学堂は、その後士林公学校(場所は芝山巖より市の中心寄り)となり、多くの卒業生を輩出した。陳絢暉氏も、その第三十八回の卒業生である。



※許國雄著 『台湾と日本がアジアを救う−光は東方より』のご紹介はこちら

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