−連載コラム−
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No.21
台湾独立の胎動  終 
−「新台湾と日本」取材班

創立百年を超える士林国民小学


 平成七年に開校百周年記念祝賀大会を開催した士林国民小学も、日本時代の創立である。「開校百周年」とは、日本時代からの通算年数のことである。
 林振永さんはこの学校の卒業生で、校友会の会長を務めている。

「校友会は、主に六十歳以上の卒業生が多いです。若い人はお金も時間もないですから。でも、全体の五分の一位が戦後の卒業生です」

 校友会は、戦前の卒業生、戦後の卒業生も入ることができる。要するに学校の歴史が戦前も戦後も連続していることに、誰も疑いを抱いてはいないのである
。林さんは、小学校時代について、懐かしそうに次のように語ってくれた。

「学校は制度の上で分けられていましたが、日本の先生は決して差別をしませんでした。日本人と台湾人は全く同じように扱われました」

「制度のうえで分けられていた」とは、日本時代の台湾の小学校は、小学校と公学校に分かれていたということである。小学校は日本人が多かったが、台湾人でも官吏や教員の師弟は小学校に入った。大ざっぱに言えば、日本語が上手に話せる子供が小学校へ行き、日本語があまり得意でない台湾人の子供は、公学校へ行ったのである。そして、そのような制度的な区別はあっても、戦前戦中の日本人の先生は、生徒の差別を決してしなかったというのである。

「山で一所懸命李登輝の顔に似た石を探してきました」
 林会長の指さす方には、確かに李登輝前総統の顔に似た長四角の大きな石に「春風廣被」と彫った開校百周年記念碑が建てられている。
 戦後になって、校内には、中国大陸から渡ってきた支配者蒋介石総統の銅像が立てられた。また、同じ校内に、台湾人として初めて総統となった李登輝総統の揮毫で、日本統治時代の開校より百周年を記念する碑が立てられた。本音は台湾独立でも、未だに中華民国の政治体制を捨てることのできない台湾の政治状況を、小学校の校庭が表現していておもしろい。
  この士林国民小学は、以前にも触れたように、井沢修二が開いて、有名な「六士先生」が教えた芝山巌学堂がその始まりである。この学校にも校史館という部屋があり、やはり北一女と同じく日本時代から現在まで通史が説明され、芝山巌学堂を開いた井沢修二以来の歴代校長の写真が飾られていた。学校の歴史は、やはり連続している。
 林会長はこのような学校の歴史に強い誇りを持ち、やはり同校の卒業生である陳絢暉さんらと共に、国民党によって破壊された六士先生の墓の再建などにも取り組んだ。
 
 林会長は、戦後の台湾の教育に大きな不満を持っている。
「日本の領台と同時にこの学校の歴史は始まりました。しかし、戦後の日本が昭和天皇のことを教えなくなったのと同じで、この学校の歴史のことを戦後は生徒たちに教えなくなりました。生徒の質ということで言えば、国民党の時代になって悪くなりました。台湾の暴走族はひどいですよ。人にすぐ斬りつけますから。今は修身を教えないで、公民だけなので悪くなっているんです。昔の日本人は四書のいいところをピックアップして教えました。今は丸暗記なので後で忘れてしまうだけです。台湾の人も日本の人も戦前の教育を受けた人の方がしっかりしています。戦後の経済発展をつくってきたのはこの人たちです」

 校史館と同じ建物の中に、士林国民小昆虫貝殻博物館という部屋があったが、ここを案内してくれたのは、やはり同校の卒業生で同館館主の肩書きを持つ陳梔論さんであった。最初、陳さんは、昆虫や貝殻の話をしていたが、いきつく話題はやはり日本時代の話である。
「僕は中国の教育を受けていない。全て日本教育だ。今も宮内庁からもらった教育勅語を持っている。昭和19年頃、僕は第二回の陸軍特別志願兵へ志願し、昭和20年終戦を迎えた。戦後日本から元日本兵だった台湾人に対して見舞金が出たが、僕らは受け取らなかった。命が助かったからそれでいい」
 陳さんは質実剛健、日本教育を受けたことを自慢するが、それだけに戦後の日本に対する評価は実に厳しい。
「今の日本人は日本人ではない。NHKが僕のところに取材に来たことがあるが、二つのことを言っておいた。ひとつは、今の日本人はオスかメスかわからん。二つ目は日本は教育勅語を復活すべきだ、ということだ。テレビで放送されると台湾人の友人からいっぱい賛成の声があったよ」


二世、三世の日・台交流

 士林会という団体がある。士林国民小学の元教員らによる組織で、日本人も台湾人も参加している。1980年から開かれているこの会は、最初は日本人教師だけの集まりであったが、台湾からも参加するようになり、やがて五年に一度は台湾で開催されるようになった。開校百四周年目に当たる平成11年の大会は、佐賀で開催され七十名程が集まった。幹事を務めた北島文子さんは次のように語る。
 「私は昭和九年生まれで士林小学校で学びましたが、教員ではありませんでした。教員をしていたのは父です。参加者も二世が中心になりました。先生方も高齢なので自分で主催することはなかなか難しいのですが、二世が主催するなら参加したい、という人も多いです」
 寝たきりでドクターストップがかかった人も、倒れて言葉が不明瞭になった人も、士林会の開かれる日を目指して一所懸命リハビリをし、当日は元気に参加することができるという。
「士林会が近づくと元気になる方は多いです。台湾から杖をついて参加する方もおられます。それに、私たちも楽しいですよ。学校の周りに官舎があって、そこに教員の家族は住んでいたので、二世も遊び仲間です。だから、二世同士が集まっても楽しいんです」
 会に集まって来るのは純粋な二世ばかりではない。士林小学校とは全く関係のない北島さんのご主人や、弟のお嫁さんも参加されているし、六士先生の係累の方や台湾関係の研究者も参加している。二世三世を加えた全く新しい形での日本・台湾の交流が始まっているのである。

 新しい形で、日本と台湾の友好を深めている人は他にもいる。以前の号で触れた海交会(旧日本海軍の戦友会)の揚俊城さんは、若い世代に日本精神を伝えることに心を砕いている。
「私は、息子が小さい頃には教育勅語の精神を教えてきました。最初は学校の先生の話と違うと戸惑っていましたが、今は私の方を正しいと信じています。また、私は豊原の青年商会(青年会議所)の会長をしていましたが、商会のOBが集まった時には、何故日本精神が必要であるのか、という話をします。シオノギ、大正製薬、松下電器、ソニー等が何故今まで続いているのか、皆関心があります。それは、信用、時間を守る、約束を守る日本精神があるからだと説明すれば皆納得します。中国の会社は、騙してお金を儲けても信用がないのですぐ倒れるのです。だから、私は日本の青年会議所と台湾の青年会議所の橋渡しもたくさんやっています」

 また、前出の陳さんが主宰する「友愛グループ」という、日本語を研究する台湾人グループがあり、戦後世代の台湾人も参加している。陳水扁新総統の自伝『台湾之子』を日本語に翻訳する際にはここのメンバーが大活躍した。このクループには短歌の会や俳句の会まである。
 和歌の会の名称は「台北歌壇」という。かつてここを代表された故暮建堂さんは、外国人でありながら宮中の歌会始にも招待されたことのある人だが、次のような和歌を遺している。

 萬葉の流れこの地に留めむと命の限り短歌詠みゆかむ

 この和歌は、当社の『平成新選百人一首』(宇野精一/編)に収録されている。三千年の日本歴史の中から、僅か百首を選ぶ過程においては議論百出。その作業は困難を極めた。しかし、日本人としての教育を受けながらある日突然日本人ではなくなった呉さんの和歌を、百首中の一首とすることに、編纂委員は一人も異論を挟まなかった。
 
 戦後台湾人の味わった「悲哀」もまた、我々が決して忘れてはならない日本歴史のひとこまなのである。
(了)


連載はこの号で終了です。ご愛読有難うございました。
<ビデオ> 「新台湾と日本」も、是非ご覧下さい。

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