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−連載コラム− |
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| 台湾独立の胎動 | No.A | ||
| −「新台湾と日本」取材班 | |||
| 台湾人総統の誕生 | |
| そのような中、李登輝氏は、本省人(台湾人)として初めての中華民国総統となり、政治の頂点を極めた。 李登輝氏の総統就任は、半ば偶然に起こった。蒋介石の死後、多少の経緯があって息子の蒋経国が総統職を継いだが、その下で副総統を務めていたのが、李登輝氏であった。蒋経国は、台湾農業振興のため、農業経済学の権威である李登輝氏を副総統に起用したのである。 そして、一九八八年一月に蒋経国が病死すると憲法第四十九条の規定によって李登輝副総統は自動的に総統に就任した。以降、李登輝氏は、クーデターを含む外省人グループの様々な陰謀と国民党内で闘いながら、十二年間に渡って総統職を守り続けて来たのであった。 李登輝氏は述べられる。 「私の十二年でやったことは、大陸との関係をはっきりさせたことです。まず、大陸との内戦状態を終結させました。大陸は中華人民共和国が有効に統治していることを宣言しました。こちら(台湾、膨湖諸島、金門島、馬祖島)は、台湾中華民国。特殊な国と国との関係にあると言いました。二国論です」 李登輝氏の「二国論」(註2)は、大陸の「台湾解放」の大義名分をなくし、中華民国の国際的地位を向上させるためのものであると言われている。しかし、それは同時に、「大陸反攻」のスローガンを降ろし内戦状態の終結を宣言することによって、独裁体制を正当化してきた「動員戡乱時期」臨時条款を修正する目的もあった。李登輝氏は、万年国会議員の廃止。総統の直接選挙制度の導入等次々と改革を推進し、かつて、一握りの外省人だけのものであった台湾の政治を、今や全ての国民のものとしつつある。 前出の許国雄氏は述べられる。 「祖国の兵隊が台湾の人々を無差別的に虐殺したのがこの二.二八事件です。当時高雄市の市参議員(市会議員)であった私の父も撃たれて死にました。もし、李登輝先生が総統にならなければ、二.二八事件は未だに口にすることさえ恐れなければならない時代でした」 緯詮電子股分有限公司董事長の蔡焜燦氏も、次のように述べられている。 「日本の方が蒋介石さんに対して、今でもご恩感じてる。私は素晴らしい事だと思います。その点、日本の方は律義なんです。その素晴らしい蒋介石さんが、世界でも類のない戒厳令四十年くらい敷きました。その間の独裁政治たるや凄いです。私が皇帝であるような感じで台湾を統治しました。台湾は、李登輝さんが総統になるまで民主国家ではなかったんです」 待ち続けた祖国に裏切られた「台湾人の悲哀」について、日本人は余りにも無知であるかもしれない。一九九五年、李登輝総統は、二.二八事件についての報告書をまとめさせ、国家元首として犠牲者の遺族に正式に謝罪した。 |
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| 台湾中華民国 | |
| 一九九九年七月に出された李登輝総統の「二国論」は、世界中に大きな衝撃を与えた。 特に、大陸の中国共産党は敏感に反応し、機会あるごとにこれを批判した。台湾側が、大陸とは別の国家であると宣言すると、台湾を回収する大義名分がなくなるからである。 中国共産党は、かつて戦火を交えた反共主義の外省人グループとも手を結び、何としてでも台湾をつなぎ止めたいと考えている。前回の総統選挙でも大陸側は、武力行使をほのめかし、外省人である宗楚瑜候補以外への投票を激しく牽制した。しかし、人々は新総統に台湾出身である陳水扁氏を選出した。陳水扁氏は李登輝路線の最も忠実な継承者と見られていたからである。 李登輝氏は力強く述べられた。 「日本政府は中華人民共和国と国交関係を結んでいる。だからと言って台湾は国でないということはない。国交なしでも承認しようがしまいが台湾中華民国は国家として存在している」 「台湾中華民国」は、最近李登輝氏がこの国のことを指す時に好んで使われる言葉である。外国が承認しようがしまいが、今台湾人は、この国を自分自身のものとして着実に建設しつつある。「台湾人の悲哀」から「台湾人の幸福」へ、との李登輝氏の言葉の意味は正にここにあるのである。 李登輝を含め「六十五歳以上の人は全て”親日”」と言われるこの国の将来に対して、日本は決して無関心であってはなるまい。 |
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(註2) 李登輝氏の「二国論」には、大陸が将来「民主化」したら統一するという条件がついている。この条件は、大陸を刺激し戦争を招く危険性を防ぐために、便宜的に付けられたという見方が一般的である。 |
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