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台湾には、大きな可能性が残されている。それは、歴史認識を日本と共有できるかもしれない、という大いなる可能性である。
大東亜戦争における日本の敗戦によって、アジアは再び欧米諸国の影響下に入った。大ざっぱな言い方をすれば、戦争中の日本に協力した者は政権に留まる正当性を失ってしまったのである。政権を担当できる資格は、連合国側の戦列に立って日本と戦った経験があるか、連合国側の歴史観に自らの立場を変更するか、二つに一つしかなかった。
例えば、終戦直前まで中国領土の大部分を支配し中国人民に平和をもたらした汪兆銘政権の幹部は漢奸(対日協力)の理由で処刑、一掃され、抗日戦を戦った蒋介石と毛沢東のみが中国を支配する資格を得た。日本の同盟国であったビルマは、独立を確保するため終戦間際に連合国側に寝返り日本へ背いたし、日独伊にタイを加えて四国同盟を提唱したタイは、日本との協力の責任を一人の閣僚に押し付けたため、不思議に敗戦国にならなかった。力の論理の前に歴史観は大きく変更されざるを得なかったのである。
しかし、台湾では、李登輝氏を始めとする大部分の年輩者が日本帝国の近代史上の立場に深い理解を示してくれている。また、大東亜戦争の意義を堂々と主張する『台湾論』を多くの人々が買い求めて愛読しているのである。台湾人の年輩者には、日本人と同じ戦争を同じ目的で戦ったという共通の記憶が残されているのである。
台湾では、昭和17年(1942)に陸軍の特別志願兵制度が実施されたが、1200名の募集に対して志願者は実に42万5961人(418倍)、翌18年には1800名の募集に対して志願者は更に増えて60万1147人(596倍)にも達している。昭和19年には海軍の志願兵の募集も始まり、昭和20年からは徴兵制度も始まった。多くの台湾人青年達が日本人と共に戦争に参加し散華した。靖國神社には、日本人や韓国人、パラオ人と共に、戦死が公文書で確認できる台湾人戦死者2万8000人が祀られている。
また、生き残った台湾人の戦友の結束も固く、戒厳令時代に既に戦友会が結成されていた。
平成旅行社を営む陳棟(日本名 吉村健作)氏は、昭和17年7月に陸軍特別志願兵として志願した勇士であり、戦友会(台湾軍大四十八師南星同学会)結成の後は、この会の役員を務めた。
陳氏は言う。
「『六友会』の名で軽く会食程度の集いを始めたのは昭和47年頃からです。やがて貿易会社の名で会合をカムフラージュしてゆくようになりました。要するに秘密結社です」
その名に冠せられた「六友」とは、昔訓練を重ねていた地名「六張梨」の戦友会の意である。
戦死した戦友の慰霊祭も細々と続けられた。やはり戦友会(台歩二会)の役員を務める鄭春河(上杉重雄)氏はこう語る。
「慰霊祭は、二年か三年おきにやっていました。神式でやろうと思いましたが、当局からのクレームがあり仕方なく仏式でやりました。日本語も禁じられていましたが、復員したばかりの私は北京語は話せなかったので、国民党の官憲からは随分ひどい目に遭わされました。でも、戦友仲間が集まったときはみな日本語しか話しませんでしたよ」
1984年(昭和59年)以降は、この会は名称も「臺灣南星同學聨誼會」とし、正式に戦友会として発足した。海軍の方もこの頃「海交會」という戦友会をつくった。以前の号で取り上げた黄金島氏らは、海交會である。
南星會と海交會は、戒厳令の解除後に台湾人戦死者を祀る忠霊塔を建立した。1990年(平成2年)12月、台中の宝覚寺に台湾出身日本軍人の戦死者の霊を祀る「平和英魂観音亭」と「霊安故郷」と刻んだ慰霊碑が建立された。この「霊安故郷」という文字は台湾人として初めて総統になった李登輝氏(当時現職)の揮毫によるものである。
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