−連載コラム−
No.@ No.A
No.B
 No.C
No.D No.E
No.F No.G
No.H
 No.I
No.J No.K
No.L No.M
台湾独立の胎動 No.N
−「新台湾と日本」取材班

台湾海峡の守護神 明石元二郎


 劉さんは言う。
「明石総督のお墓については、別に誰かから頼まれたことではないんです。主人より十歳位先輩で友人の林益謙さんが、日本人から頼まれたんです」
 林益謙さんは、一高、東大出身の俊才で、台南州曽文郡郡守を経て、総督府財務局金融課事務官、同課長等を務め、後にインドネシアへ南方施政官として派遣された人物である。当時の台湾では、数こそ朝鮮のように多くはなかったが、高等官として多くの日本人を部下に持つ台湾人行政官が存在した(朝鮮の場合、台湾の「州」に相当する「道」知事もしく副知事は朝鮮人が勤め、郡守はその半数は朝鮮人であった)。郡とは州の次のクラスの行政単位で、その権力は絶大、電話一本で巡査部長を更迭することができた。当時台湾には五十二の郡があったが、劉秀華さんのご主人の楊基銓さんも、台北州宜蘭郡守を若干二十四歳(数え年)で務めている。これは台湾の総督府史上最も若い高等文官の記録となっていた。

 劉さんは続ける
「でも、林さんは日本住まいが長く、台北近辺しかご存じないので、私が何とかしようと思ったんです。最初は、日月潭に姉が嫁いでいて土地を持っているので、姉に頼もうと思いました。しかし、法律でお墓の認定があるところしか埋葬できないことになったので、姉の土地には埋葬できませんでした。姉に、新たに墓地の認定のある土地を探してくれと頼んだところ、今度は仏教の寺院がみつかりましたが、四〜五日して断られました。」
 墓所探しは随分難航したらしい。いろいろな案が出ては消えていったことは、当時から聞いていた。
「そして最後は、自分の買っているところはクリスチャンの墓地ですが、そこはどうなんだろうと思って当たってみました。一面識しかない董事長に頼んでみようと、何回も電話したがつながりませんでした。仕方なく、電話に出てくれた人に頼んで二〜三日してからまたかけたら、いい(OK)、ということでした」

 斯くして明石総督のお墓は、楊基銓・劉秀華夫妻と同じ霊園に決定したのである。
「どうしてそんな気になったのかよくわかりませんが、霊感だと思います。お金も全部出すつもりでしたが、陳水扁市政が四十七万円用意しており、足りない分は多くの方がお金を出して下さりたちまち集まりました。主人が戦後華南銀行(明石元二郎が設立した)の会長をしていたので、華南銀行もお金を出してくれました。明石元二郎の孫の明石元紹さんも管理費等を出費されています」
 
 台北県三芝郷福音山クリスチャン墓地の台湾海峡を臨む丘陵斜面に明石元二郎総督の墓はある。大理石造りの立派なお墓である。完成までほぼ一年を要した。

「ずっと二週間くらい雨が続いたのに、改葬の日だけは不思議に晴れました。マスコミもみんな取材に来ました。また、台湾でも有名な牧師さんが説教してくれました。明石さんは、台湾を愛して今日この地に埋葬されることとなりました。これこそが本当の愛である、というお話でした。参列者は感動してみんな泣きました」

 ご主人の楊基銓さんも次のように述べる。
「明石総督の台湾を愛する心はクリスチャンと同じです。墓を建てた日付は、1907年三月廿六日にしました。これは、明石総督がヨーロッパ(明石元二郎はヨーロッパで駐在武官を勤めながらロシア革命を支援し、日露戦争を有利に導いた)から帰るときに台湾海峡を通った日です。実はこの日に総督の奥さんも亡くなっています」
 
 クリスチャンの墓域で、墓石に聖書の言葉は彫られているが、十字架はなく、明石総督自作の漢詩が彫ってある。漢詩は明石元紹さんの希望であるという。銅板は、台北の墓のものをそのまま使用している。

 楊さんは続けて述べられる。
「ここを選んだ理由は、遮るものがなく台湾海峡が見渡せるからです。台湾に代わって中国を睨みつけてくれているのです。これこそ正に聖書にいう「守護者」ではないでしょうか」
 
 1949年以降の台湾は、中華人民共和国による攻撃の脅威に常に晒され続けてきた。それは、国民党時代も現在の民主進歩党政権下でも状況に大きな変化はない。斯かる状況下で、明石元二郎を台湾の「守護者」とする人々がいる。



戦争をしても国を護る気概

 
 では、楊さんご夫妻は日本についてどのように考えているのであろうか。

  楊さんは述べる。
「日本人と台湾人官吏の間には、同じ等級でも(外地勤務等の名目で)加俸がありました。台湾人高等文官に加俸が支給されるようになったのは1944年(昭和19年)からです。しかし、私の同僚は私の職務上の権限を尊重してくれ、差別観念など全くありませんでした」
 
 劉さんはどうだろう。

「日本人の先生は、皆立派な先生でした。あの頃の教育はよかったです。日本の友達も八十近い歳ですが、今でも家族同様の付き合いをしています。私は目白の日本女子大学を卒業しましたが、在学中には家政科の二類の教員免許を取りました。良妻賢母を育てることによって国を強くすることができると思ったからです」
 楊さんご夫妻は、非常に親日的な方である。しかも同時に、二人とも熱烈な台湾独立論者である。中国人がつくったシンガポールがもはや中国ではないように、英国人がつくった米国が既に英国ではないように、台湾は中国ではない、と断固として主張されている。

 劉さんは述べられる。

「私たちは、生まれたときは日本人でした。日本が戦争に負けて放り出されました。蒋介石が来て、ピストルを突き付けて『お前は中国人だ』と言い続けました。でも、台湾は中国でないのですから独立するのは当然です」
 我々が、「でも、陳水扁も就任式では自分の任期中は独立しない、とおっしゃっていますね」と聞き返すと、次のように述べた。
「陳総統は苦労しているんです。民進党が“独立綱領をはずさない”と言ったのでほっとしました。人民が中国を怖がっているのが問題です。戦争をしても国を守りたいという位の意気を、前の政権が教えてくれればよかったんです。日本の特攻隊は『やりすぎ』なところがあったかもしれないけど、人のために自分を犠牲にするのは大事なことだと思います」

 戦後多くの日本人が喪ってしまった独立国家としての当たり前の国民の気概を、この国の年輩者は「常識」として持ち続けているのである。

(続きは No.Oへ)

ビデオ 『新台湾と日本−時を超えた絆』紹介ページへ