|
日本は台湾を統治するために台湾総督府を置いたが、第七代台湾総督明石元二郎の墓も台湾にある。
明石元二郎は、大正七(1918)年六月台湾へ赴任、その任期は短かったが、日月潭の水力電力事業着手、縦貫道路や新鉄道「海岸線」の着工、台湾の司法制度や学校制度を内地のものにより近づけることなどに功績があった。また、森林保護のため営林局の権限を強化したり、対岸の中華民国政府との友好を促進するため、両国人の合弁による華南銀行の設立や広東への病院開業等を実現したりした。明石は、赴任に際して、台湾通の政客杉山茂丸から「内地から来た日本人よりも台湾島民を第一義にして統治をしなければ双方の平等政策は行われない」とアドバイスを受けていたという。
ちなみに、当社の石井公一郎前社長の父故石井光次郎衆議院議長は、明石元二郎の秘書官であった。
明石は、次の首相の呼び声も高かったが、日本へ一時戻っていた大正八年十月に急病で逝去。遺骨は、その遺言により台北の三板橋墓地へ葬られた。
墓所をつくるに際しては、その遺徳を慕って募金が集まり、皇族方を除いてこのような立派な墓を持った者は未だいないというほど立派なものが建ったという。墓域は二千坪もあった。当時の写真で見ると、正面に鳥居を配した神式の立派な墓所である。
しかし、戦後になると墓所の状況は一変する。国民党と一緒に大陸から渡って来た外省人が、明石の墓所を含む日本人墓地一帯に勝手にバラックを建設して住み着き、スラム街を形成したのである。五年程前に高千穂商科大学の名越二荒之助教授が、この墓所を探しに行くと言われるので、一緒にバラック街へ入ったことがあるが、墓所はどこにあるか全くわからず、近くに住む日本語のわかる年配の台湾人の親切な案内によって漸くそこに辿り着くことができた。鳥居は公衆便所の柱に流用され、その惨状は痛ましいばかりであった。このバラック街を撤去して公園にしたのは、台北市長時代の陳水扁氏(現総統)であることは既に書いた。ここに至るまでには、日華交流教育会(小堀桂一郎会長)の許國雄氏や草開省三氏が陳水扁市長に対して盛んに陳情活動を行ったという。
この地域が公園にされる際、日本人の遺骨は、掘り起こされて台中の宝覚禅寺にまとめて埋葬された。しかし、明石総督のお骨だけは、行き先が決まらず冨徳霊骨棲に安置されていた。台湾当局としては、明石の墓所をどこかにちゃんとした形で建てたい意向であったのだろう。
そこに現れたのが楊基銓・劉秀華夫妻である。この二人によって、明石総督は新しい墓所を得ることができたのである。
|