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前号では、台湾人によって祀られる日本人について書いたが、今回はその続きである。烏山頭水庫をつくった八田與一は、台湾人に祀られる日本人の中でもかなり有名な人物である。
烏山頭水庫は、台南市より車で約一時間強の距離である。現在台湾第二の大きさを誇るこのダムは、日本時代の大正九年(1920)に着工、十年の歳月をかけて昭和五年に完成した。かつて、洪水と干ばつを繰り返していた嘉南平野は、このダムの建設によって豊かな穀倉地帯へと変貌を遂げたのである。嘉南大しゅうと呼ばれる嘉南平野に巡らされた給排水路の距離は一万六千キロメートルに及び、それは中国の「万里の長城」の六倍以上にも相当する。李登輝前総統は、このダムと水路のことを流暢な日本語で「一万五千キロもある民のための水路」と我々に説明した。
この大規模なダムの設計者であり、工事全般の指揮を取った八田與一の銅像が、今もダムを見守るように建っている。この銅像は、地元の人々がその功績を讃えて建てたものである。十年の間共に現場で汗を流した八田の人柄は人々の印象に強く残された。烏山頭ダムは八田與一の名前を冠して通称八田ダムと称されている。
嘉南農田水利組合会長の徐金錫さんが、この八田ダムについて誇らしげに説明してくれた。
「このダムは、当時の最先端の技術を駆使してつくられました。このダムのおかげで、米も砂糖キビもサツマイモも作られます。米は日本内地へも輸出していて、砂糖キビで作った砂糖は世界中の市場に進出できました。嘉南地域は穀倉地帯となって経済発展の出発点となったのです。しかし、建設に取りかかる前は、完成を疑問視する声もありました。米国技師のジャスディンも八田の技術を疑っていました。しかし、彼は自分の意見を堅持し、ダムを建設し結果的に正しいことを証明したのです。今でも全国の農田水利の関係者の間では、嘉南大しゅうの八田與一のことは知らない者はいないほど有名です」
八田ダムの建設によって八田與一の名声は一気に高まった。占領支配している地域に土木工事を行うのは日本人の特徴で、日本政府は今度は八田をフィリピンの綿作灌漑の調査に向かわせた。昭和十七年五月のことである。ところが途中、敵潜水艦の魚雷攻撃を受けて輸送船が沈没、八田は終に還らぬ人となってしまうのである。八田の葬儀は台湾総督府による総督府葬で行われたが、烏山頭でも八田を慕う農民たちがしめやかに嘉南大 水利組合葬を斎行した。ダムの完成から十年以上が経過していたが、人々の八田を慕う気持ちは厚かった。
昭和二十年八月日本は降伏。日本が降伏文書に署名する前日の九月一日未明、今度は八田夫人が、夫がつくったダムの放水路へ身を投げ八田の後を追った。八田と連れ添い、彼の仕事をたすけ、子供を育ててきた台湾を、彼女は終生の地と考えていたともいわれている。
嘉南の人々は昭和二十一年十二月十五日、銅像の後ろにその遺徳を偲び夫妻の墓を建てた。高さ一・五メートル程の墓の正面には、「八田与一・外代樹夫妻之墓」と刻まれている。
八田與一の墓と銅像は、反日政策下の国民党時代にも破壊されることなく今日に至っている。否、破壊されるどころか、水利会の主催で墓前祭が毎年五月八日(八田の命日)に行われてきたのである。
徐さんは述べる。
「この工事を行った八田さんは、ひとりのエンジニアとしてのみならず、嘉南地域へ尽くしてくれたた人として広く認められています。人々は毎年ここに集まって八田さんの功績を称えているのです」
戒厳令が解除された頃からは、八田與一の出身地の金沢市からも毎年墓参団が参列し、墓前祭は今も盛大に開催されているそうである。
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