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−連載コラム− |
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| 台湾独立の胎動 | No.J | ||
| −「新台湾と日本」取材班 | |||
| 宝くじまで当たる飛虎将軍廟 | |
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台湾人から祀られている日本人の廟で最も立派なものは、台南市にある鎮安堂「飛虎将軍廟」であろう。 「飛虎(ひこ)」とは、戦闘機のことである。「将軍」とあるが、ここに祀られているのは下士官である。この廟には、旧日本海軍航空隊の杉浦兵曹長が祀られている。 この廟へは、蔡徳本さんと共に、地元の郷土史研究家である王渓清さんも一緒に案内してくれた。王渓清さんは、海軍の新型迎撃戦闘機雷電をつくっていた厚木の海軍工廠で、軍属として働いた体験を持つ。ここで働いた台湾人少年工たちの集まりは今でもしぼしば日本で開かれ、日本のマスコミにも取り上げられたことがあるが、新聞が「強制的に徴用された」と書いたことに不満を持っている。この方たちにとっては、工場での労働はあくまで志願であり、それは、名誉なことなのである。王渓清さんが、飛虎将軍廟へ関心を持った理由もその辺りのことと関係しているのかもしれない。 王さんは、述べる。 「一九四四年(昭和十九年)十月十二日のことです。米軍と日本軍の空中戦がありました。米軍の新鋭グラマンF6F戦闘機約四十機の来襲に対し、日本側は台南航空隊、高雄航空隊の三十七機が迎撃に上がりましたが、機種は旧式の零戦三十二型、それも前線で破損し台湾で補修された機体が主力で、しかも、基地を飛び立った瞬間を狙われたため、大きな損害を出しました。日本側も零戦隊が、七機の米軍機を撃墜し、一機を地上砲火で撃墜、他に不確実撃墜が三機ありましたが、十七機が未帰還機となりました。この時、米軍機に体当たりして撃墜した零戦の搭乗員(パイロット)が 飛虎将軍廟へ祀られている杉浦兵曹長です。ここには他にも二人の日本軍パイロットが祀られています」 当時、この空中戦を最初から最後まで見ていた十七歳の農夫・呉省事さんの畑の周辺には、三機の日本機が墜落したという。体当たりで戦死したパイロットの死体は上半身はなく、下半身だけが残り、飛行靴に「杉浦」と書いてあった。呉さんは、他の住民と共に憲兵隊や航空隊の隊員が遺体を回収するのに協力した。 それから十数年後、毎晩白い衣装をつけ、白い帽子を被った人がこの辺で、幾度も目撃されるようになった。占ってみると、この空中戦で亡くなったパイロットの亡霊であるとのお告げがあった。このため、呉さんは自分の土地に、小さな祠を建て、地方の安寧と無事を祈願したのであった。すると、急にこの辺りが栄え出したのである。 王さんは、 「みんな豊かになりました。治安もよくなり、宝くじまで当たるようになりました」 と嬉しそうに語った。 堂守りの翁清輝さん(七十七歳)も「ここに廟を建てたとたん、街が急速に発展した」と言う。 翁さんが堂守りになる前、廟を長年守って来たのは、呉江河さんで、やはり遺体の収容を手伝った人の一人である。日本軍人を祀っているので、祝詞代わりに朝は「君が代」を、夕方には「海ゆかば」を歌い続けてきた。また、線香の代わりに煙草を上げる。台湾の他の廟にはそのような習わしはない。 「日本人だけを祀る廟は珍しいです。普通は他のいろんな神様と一緒に祀られています」 蔡徳本さんもそう説明する。 初代堂守りの呉江河さんは我々が、ここを訪れた時には既に亡くなり、後を継いだのが翁清輝さんであった。この人もやはりパイロットの遺体の収容に協力した人である。翁さんの時代になっても祝詞の「君が代」「海ゆかば」は続けられていたが、現在は伴奏を流していたテープレコーダーの機械が壊れたため一時中断しているという。今回の取材で大分お世話になった蔡混燦さんが、新しいテープレコーダーを贈呈する計画中であると、後で聞いた。 それにしても、日本軍人だけを祀り、「日の丸」「海ゆかば」を歌う廟が、大陸から渡ってきた国民党政権の弾圧を受けることはなかったのであろうか。 王さんは述べる。 「この地区を視察に来た当時の蘇南成台南市長は、日本人でしかも日本軍人を祀るとはけしからんと言って、廟を取り壊そうとしました。工務局から撤去のための部隊が来ましたが、廟の付近の人々は集まって、彼らに対抗しました」 人々は、廟を守るために中国国民党へ立ち向かったのである。このことについて、蔡徳本さんも「戒厳令下では、珍しい抵抗」と述べている。かつて、台湾教育界のエリートで輝かしい将来を約束されていた蔡徳本さんは、国民党の戒厳令の下で、突然無実の罪で捕らえられ苦しい獄中生活を送った。戒厳令下で民衆が政府に抵抗することの難しさを知っている。 結局、最後は工務局側が折れ、廟は守られた。戒厳令下の台湾では、正に奇跡に近い出来事である。そして、最初四坪ほどの敷地にあった小さな祠は、やがて十坪になり、一九九二年には三十坪の敷地にイタリア製の大理石の立派な廟となったのである。 廟の柱には 「軍人として立派な最後を遂げた」という意味のことが書かれていた。それを見て、「国のために戦った人だから、という気持ちで祀ったんだと思いますよ。日本人は国のために亡くなった人を大事にしませんよね」と、蔡徳本さんはポツリとつぶやいた。 |
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